動き始めた船の甲板を、黒い塊が物凄い勢いでぐるぐると回っている。
「――――よっしゃあ、うおおおおおおっ!!」
言うまでもなく、アイムである。
舳先で逆立ちをし、ドアというドアを開け、
「……。」
「……。」
フォルクスとラヴェルが目で追いたくもない速度で動き続ける。
「行くぜ行くぜ行くぜー、ラディスハイドーっ!」
終いには、船から海に飛び込んで、魚を咥えてまた水面に飛び上がる。
「……いやね、分かってるんだけどね、あたしのポジションはツッコミだって。……引くわー……」
ぽつりと、ラヴェルは呟く。
「お前がそう言うってことは、相当なことなんだな」
つられて、フォルクス。
やがて相棒の暴走を見るのも飽きて、ラヴェルは話し始める。
九年も前の、昔話。
ラディスハイドの警備兵が、特別仕事が出来ない訳では無いけれども、その晩は何故かすんなりと侵入が出来たのは確かだった。
……ベルナート・クラン。九年前のその頃はまだ、現役で国の重鎮である。その邸の寝室に、暗闇に紛れて、黒ずくめの暗殺者が、一人。
真夜中。眠っているターゲットの頭上に、長い槍を振り上げると、
「……」
そこで、暗殺者の動きが止まった。
魔法の詠唱は全く、聞こえなかった。それなのに槍が空中で、光の鎖に拘束されている。
「……っ!!」
寝室に灯りがともる。小さな殺し屋が攻撃の姿勢を取る前に、忍び寄っていた別の二人がその背中に飛び掛かり、羽交い締めにした。
ベルナート・クランの正妻ミリカ・エナと、愛人シーフレーン。
「離すなよ、そいつを。さて……」
むくりとベッドから起き上がったベルナートは、何故か軍服を着ていて、
「こういうことだ。暗殺者。運が尽きたな」
短い手紙をひらひらさせている。
「……字、読めない……」
黒羽根、円錐形の黒マント、頭には一本の毛もない子どもの殺し屋は、ほんの刹那、抵抗していたが、
「……ん? 読んでやろうか? 〝明日の夜、〝漆黒の悪魔〟という暗殺者がそちらに向かうので、始末を宜しく〟……ということだ。嵌められたんだ、お前さん」
二つ名を呼ばれて、ぴたりと動きを止めた。ミリカの方はとうに手を離していて、猫獣人…と言うより殆ど猫のシーフレーンのふわふわもこもこの毛が、”漆黒の悪魔”の全身を閉じ込めている。
ぼん、とベルナートが、
「辛かったな、今まで。今――――」
左手を禿頭にやると、
「うわああああん!!」
殺し屋がいきなり大声で泣き出した。
「うわああ、うわあ、うわあああん!!」
見た目の十歳くらいの子どもより、まだ、幼い様子で。
「――――ちょ、ちょっと、幾ら裏切られたからってな……」
狼狽えるベルナート。子どもを殺したことが無い訳では、決して無い。しかし、これは。
じーっ。
ミリカが、非難するように夫を見ている。
じとーっ。
シーフレーンの、咎める猫目。
とどめが。
「オシルスとイシスが、起きて来ますよ」
完全に立場が悪くなったベルナートは、腰に差していた剣から渋々右手を離す。
暫くして、もこもこの毛に慰められたのか、黒ずくめの子どもが少しずつ泣き声を小さくすると、
「ちょっとー、あたしを解きなさいよ!」
天井近くで、別の声がする。
「……ラヴェルを、離してあげて、このアイムさんが言わなければ、ラヴェルは切ったら突いたり、魔法使ったりしないから」
「ラヴェルっていうのか、お前の槍は」
槍が喋っているのに、ベルナートが特に驚きもしないのは、武器の声が聞こえるのにかつて慣れていたからかも知れない。
やがて、日が上る。
アイムと名乗った黒翼紫眼禿頭の子どもは、ずっと前に拘束を解かれているのに、まだ長椅子のシーフレーンの白い毛に全身を埋めている。
ふわふわもこもこふかふか。実に、幸せそうに。
「俺よりずっと、懐いてるな……」
「それはそうよ、貴方。アイムちゃん、お菓子のおかわりはどう?」
ミリカが隣で微笑む。背丈は彼女の子ども、双子のオシルスとイシスと同じくらいの、もう全く暗殺者の気配もない、アイム。相棒の槍は、退屈そうに足元に転がっている。
凄い勢いでお菓子とお茶を平らげながら、問わず語りに、傭兵の両親が亡くなったという身の上話もして。
「何なら、ずっとここに居ても良いんだよ。オシルスと、イシスが喜ぶ」
「ベルナートおじちゃん、本当?」
悪魔の紫……もうそこだけが悪魔……という色合いの瞳が、年相応にきらきらと輝いた。
ベルナートと妻の間に、オシルスが割り込む。
「本当だよ。お兄ちゃんお姉ちゃんが増えるの、慣れてるから」
「……モンプチお姉ちゃんもそうだし」
遅れて、イシス。
「……あれ、あそこのじゅうたんでゴロゴロしてる猫さんは?」
「俺の娘」
「うそぉ?!」
結局、再び月が上る頃。
アイムはベルナート達に黙って、屋敷を飛び出してしまうのである。暖かい、優しい家族。その中に居るには、既に自分には、漆黒の悪魔という二つ名が染み付いていた。
その後も、殺しを続けながらも、ベルナート一家のことは敢えて耳に入れないようにしていた。それでも背がとんでもない勢いで伸びた数年の間は、ラディスハイドでの仕事は控えていた――――
「……要するに、凄く運が良かったって話だねぇ」
「そうなのよ」
身も蓋も無く話を終える、フォルクスとラヴェル。
「たまたま、あたしが拘束されて、アイムが情緒不安定になったから、それ以前に、あの日寝室に警備兵が控えて無くて、シーフレーンさんの毛皮であいつが無力化されてたから……」
「それ以前に正妻と愛人がタッグ組んでる時点でおかしいだろ」
「そうそれ! フォルクスが知ってるベルナート閣下って、もう少しまともな人なんでしょ?」
「いや俺、良く知らないし……」
ずっと動き回っていたアイムが、いつの間にか一人と一本の側に来ている。
「フォルクス、ステンダーの山登りがしんどいんなら、このアイムさんがおぶってやってもいーぞ!」
「聞いてたのかよ、いや、俺そんなとこで恩売りたく無いし」
「よっし、首洗って待ってろよステンダー!」
「アイム、言葉の使い方間違って……」
そんなこんなで、フォルクス達の平穏無事とはいかない船旅は終わろうとしているのだった。