ヴォールファート領 -アイム- 9

writton by 萩梓

 時間は少しだけ、前後する。
 朝フォルクスが出掛けると、途端に暇になったアイムは、言われた通り街見物……なのかは微妙だが、とりあえずヴォールファートの街中の、屋根の上に立っていた。
「……フォルクスの匂い、する?」
 最早ラヴェルも、止めはしない。
「あー……ちょっと臭いのが混じっててな。それに……」
 アイムは眉間をしかめて、ひょいと地上に降りる。そうして来るものに備えて、ラヴェルの刃の布を取った。
 一呼吸。
「おー、漆黒漆黒ー!」
 ひらり、と向かってきた人影をかわしながら、
「何だよエーリック、紛争地に行ったんじゃ無かったのかよ?」
 口は返す。
「それと、もう漆黒じゃねーからな」
 突撃を避けられた男は、器用にバランスを取ると、親しげな笑みをアイムに向けた。
 やや小柄……もっとも、比較対象のアイムが大き過ぎるのだが……で戦い慣れたような外見に赤茶の短髪。昨日、アイムが匂いを嗅ぎ付けた、傭兵エーリック・スタン、その人である。
「漆黒、廃業したって噂は本当だったのかよ。殺って欲しい奴なら何人も居るんだけど。まあいっか」
「エーリック、元気そうね」
「おう、ラヴェルちゃんも変わんねえな。……で、紛争地? 行ったけど……それどころじゃ無いんだよな、生憎」
 エーリックは急に、きょろきょろと辺りを見渡し始めた。
「……お前、追われてんのか。道理できな臭い匂いがしたと思ったんだが」
「ご名答。流石犬鼻の漆黒。ちょっと、そのでっかい羽根に、入れてくれるだけでも良いんだけど」
「自分で倒せないお前でもねーだろ」
 しかしアイムの鼻は、既に三人の追跡者を捉えている。
「……砂糖菓子三ヶ月分」
「乗った」
 エーリックの腕を掴むと、路地裏まで引っ張っていき、道を遮るように羽根を広げる。ラヴェルも、ただの槍のように壁にもたれてみせる。
 数分して、通りが元の喧騒の匂いに戻ったところで。
「行ったぞ、エーリック。……にしたって、何だありゃ? ただの雑魚傭兵風情じゃねー、騎士団クラスの兵士揃いだったぞ。お前、何したんだ?」
 アイムの後ろでエーリックは、何故か不自然に身体をくねくねさせていた。
「……やだ、こいつ、あっち行けってば、しっ、しっ!」
 炎の小さな蝶が、ひらひらとエーリックにまとわりついているのだ。
「お願い、ラヴェルちゃん、これ、壊しちゃって!」
「……未読のファイア・パピニオなんか、破壊したら術者に場所バレまくり……」
 言い終わる前にキィンンンと音が鳴り、ラヴェルの先端が丸く眩く光り始めた。
「伏せろっ!」
 路地裏に響く轟音。
 地面とアイムの羽根の間に、うつ伏せになったエーリック。その上に、ぱらぱらと砂埃が降った。
「至近距離で魔法ぶっ放すんじゃねー、ラヴェル!」
 地面には、千切れた炎が転がっている。そしてふと路地裏の空を見上げると、二人と一本をぐるりと取り囲む様に、
「何だあれ……」
 群体のファイア・パピニオが旋回していた。
 その異様な光景を見上げるアイムの隣で、ラヴェルはぶるん、と大きく震えた。
「エーリック、あたしに何てことさせるのよ! ……これって、〝クラン家の蝶〟よ!」
「クランだって?」
 突然エーリックが、小路の奥へと猛然と走り出す。
「待て、逃げんなエーリック!」
 アイムの手が空を切ったところで、エーリックの動きが急に不自然に止まった。魔法の鎖が、身体に何重にも絡み付いている。
 側には突然、影のように現れた、フード付きの外套の青年。
 笑みが浮かぶ。
「そうですよ。折角会えたんだから、逃げないで下さいね? ――――エーリック・ステンダー」