夜の山の中、焚き火がパチパチと音を立てる。
炎が照らすのは、外套を敷いて不機嫌にごろ寝をした白髪の青年と、きょとんとした禿頭の有翼人、それに抱えられた大きな槍。
「なんで不機嫌なんだよ」――荷物まで持ってやって、最短距離で目的地のステンダー山脈まで入ったはずなのに。
アイムが問うと、フォルクスは器用に炎を避けて、バサリと紙を投げつけた。
「今、俺たちはどこにいるでしょう」
声色が不機嫌満載である。
アイムは地図に目を落とす。
「……あれ? 地図って岩山とか書いてねーの?」
これまで、あまり地図に頼る生活をしていなかったアイムは首をかしげた。フォルクスの巨大なため息が耳に付く。
「行政管理用ならともかく、旅人が普通に使う地図には人間が歩く前提の場所しか載っていません」
「……えっと、つまり?」
「あ~。アイムが荷物ひったくったから分かれるわけにもいかず、地図上で今の私たちが現在地不明ってことね……」
れっきとした知的生物・有翼人のアイムより、謎に満ちた魔法の槍・ラヴェルの方が理解が早いというのもなんだかな、と思いながらも、「その通りです」と素っ気なくフォルクスは応える。
「とにかく、あんなヒトが歩くもんじゃねぇ道登らされて疲れたから、オレはもう寝る」
言って、フォルクスは焚き火に背を向けた。
雨が降ることはないだろう事は判っている。精霊の動きがそう言っている。
たぶん、彼の感覚を総動員して精霊の視界を借りれば、どうにか元の道に戻れるだろう、とは思う。
それでも、経験の無いほどの悪路を上らされた恨みもあって、今はそれをアイムに告げてはやらない。
どうしてこうなった、とは思っている。それから、本来、他国に入るための規定の手続きを取っていないのも、貴族の御曹司とは思えない意味不明の存在と遭遇したのも、動機不明で攻撃されたのも、何もかもが気に食わない。特に調べる気も起こらないが。
とにかく休みたい。
この夜は、それだけでいっぱいだった。
……まぁ、安眠さえできれば、自分の気分もどうにかなるだろう。いままでだって、この身体のことでどうこうなったときは、それでやり過ごしてきたのだから。
異国の森の精霊たちが、フォルクスをそっと包み込んだ。
この少し前、フォルクス以上に不機嫌な貴族の寡婦は、過去にないほど質素な馬車に詰め込まれて移送されていた。
気に食わない婿はともかく実の娘までが冷ややかだったのが気に食わない。
「お母様は貴族の慣習はともかく、領地のことは全く判っておられないのです」
別れ際に言われた言葉も表情も、かすかな憂いを含んではいたが、厳しいものだった。
いつから食い違ったのだろう。
質素な馬車の中では、考えることしかやることがない。
おそらく、娘の婚姻の話が出た頃からだ。
当時のヴォールファート侯爵婦人であった彼女は、娘にふさわしい爵位の青年を婿に推した。彼女の中では、それが正当なことだった。
けれども、彼女の夫、正当たるヴォールファート侯爵は、東の大国アーデルリアスの、豪商とはいえ平民の息子を婿に迎える手はずを整えつつあった。――――この地が我らの祖に爵位を与えた王の下にあった頃ならばともかく、その王家が消え、残された領地で生きていく者は、血統だけではやってはいけぬのだよ……―― その声は耳に残っている。
おりしも、ヴォールファート領を含む近隣領地は気候に恵まれず、不作と財政難にあえいでいた。彼女の持ってきた縁談元も、通常なら受け入れられただろうが、この頃には大変な時期だった。
領民の生活を考えるのならば、多額の資金と開発を行える商家の息子の方が役に立つ。理屈で判らぬほどに、彼女も愚かではない。現実として、彼は実家と連動してヴォールファート領を立て直し、近隣の領土にも恩を売るように支援を向けた。
あの地方のためには必要だった。
理屈は判る。それでも、彼女の感情は受け入れない。そして、あの男の方を信頼する娘というのも、彼女には理解ができなかった。
―― 結局は、時代に取り残されてるだけなのだ。
受け入れるのに時間がかかりすぎて、挙げ句に、この体たらくである。
送られる修道院はヴォールファート領の端、大地の精霊神を奉る教会で、おそらくは、ひどく質素で、もしかしたら土いじりすらさせられるかもしれない。
けれども、今まで一人で生きたことのない彼女には、そこにすがるしかなかった。
「……なぁ、ラヴェル」
アイムはつぶやいた。
「やっぱアイムさんって常識知らずか?」
「そうね」
ばっさりと。ラヴェルはそういう槍である。
フォルクスが寝る前に言った。
「神様の化身としてあがめ奉られるのが嫌なら、ルイ・トーバ教団には拉致られるなよ」と。
神を崇める国だと聞いたことがあったから迫害されるもの、と思って近寄らなかったが、むしろ、そんな国だからこそ、不吉だと言われた黒翼紫眼にも、需要はあるらしい。嬉しくはないが。
炎は揺れていた。フォルクスの呼び起こした火なので、きっと、彼に害なすことはないだろう。