森の匂いが濃密に立ちこめる、アーデルリアス王国の都・サーリアの近郊。
それでも、城壁を一歩出れば、そこは深い、深い、森の中である。
点在する各地の領土の町と、それを繋ぐ街道の他は、一般的には人の領域ではない。単純に開発が難しい、という事情の他に、この森の様々な神秘性が重要視されているという証でもある。
その〝人の領域ではない〟場所の一隅に、青年は立ち尽くしている。
つい先日まで、この場には、隠されたように泉があったはずだ。キラキラと光る、アーデルリアスでも珍しい小さな妖精たちが戯れて住まう、人を寄せ付けない不思議な雰囲気のあった泉が。彼は、幼い頃に何かに吸い寄せられるようにこの場を見つけ、以来、よくその場の精霊・妖精たちと戯れていた。彼にとっては馴染みの場であり、心地よい場所だった。
それがある日、ふと訪れたとき、その場はただの円形の更地になっていた。のみならず、周りの森とも、過去の泉の情景とも明らかに異なる、なにか、異様な気配が、その場にあった。
何の予兆も無ければ、予感もなかった。久しぶりに訪れてみたら、唐突に、あるべき世界が無くなって、なにやら奇妙な感触のする場に置き換わっていた。
呆然とするな、という方が無理だというものだ。青年は、頭の中の知識を総ざらいしてみたが、そんな話は記憶になかった。
青年の名は、フォルクスという。アーデルリアス王国でも屈指の商家バーム家の三男坊であり、その立場ゆえに、跡継ぎといった責任も無く、また、生来の特殊な体質の事情から、生家の家業の表に出ることも無かった。
つい2年ほど前まで、アーデルリアス王国とは行き来に徒歩でもわずか半日、という学術都市クレスブルクにある、大陸屈指の学術の粋、アカデミーの本学舎に所属して、錬金術を主にした師につき、勉学に励んでいた……と、いえば聞こえはいいが、何年かの間、実家を離れて学生寮に所属し、奇人変人ぞろいと言われる中に身を置いて、好き勝手にやっていた、という側面もある。
それでも、この場には幾度も通っていた。幼少期から、ずっと、ずっと、きっと、彼が朽ちても存在し続けるのだろう、と、思っていた。
彼は、無事に誕生したことそのものが奇跡だった。白子といっても様々ではあるが、彼の場合、欠落の度合いが酷すぎて、軽く血管が浮き出るほどの色の欠落、目も血の色がそのまま浮き上がる、死産であった方がよほど自然な状態だった。それは、彼自身がよく知っている。
彼を生かしたのは、〝精霊が宿っている〟という、かなり特殊な状態だった。所以は未だ、定かではない。ただ、心身に森羅万象を司ると言われる精霊が〝入り込んでいる〟という状態が、彼を生かし、21才の現在まで、生かされ続けている。
フォルクスと名付けたのは、母親だった。彼女は白子の不吉性という伝承を強く信じる性質で、だからこそか、彼がそういう存在であることを、最初から、精神的に、決定的に、拒否をした。何年も経った今でこそ、他の家族や身近な人々は半ば慣れ、半ば諦め半分でいるが、彼女に〝フォルクスは白子である〟と示唆すれば、半狂乱で否定する。
彼女は信じ、彼女の目を通したフォルクスは、ただ日焼けのしにくい、色白で、きれいな緋色の目をした、賢い息子だ、と。
商家としてのバーム家では、フォルクスの母、リア・バームは欠くべからざる存在だった。だから、彼女の心の均衡がフォルクスの件でしか崩れることのない以上、そこに触れないように注意をする、という選択を取らざるをえなかった。
幸い、バーム家は非常に裕福な家庭で、子供一人を持て余すようなことはなかった。当のフォルクスも心得ていて、学術都市クレスブルクで、興味に任せて錬金術の研究をするだの、生家でも商売の表には出ず、裏方でのちょっとした仕事をするだの、母親の機嫌をとるだのして、この年齢まで生きてきた。--学術都市クレスブルクの粋、アカデミーでは精霊に関する学科もあるが、フォルクスにとってはひどく身近にありすぎて、逆に研究の対象とはまったく考えなかった。
目の前で、精霊たちが戯れ、彼の友人とも言える数少ない存在たちが唐突に消失した今、それを、少しばかり後悔はしている。けれども、それでも、伝手は無いわけではない。これから、なんとか調べるしかない。
軽い自己嫌悪を覚えつつ、森から街の門を経て、家に帰る。彼は、いつも裏門を使っている。客などに見られるのが面倒だ、という、実用一辺倒の理由である。
そこで、旧知の青年に遭遇したことが、大げさな言い方をすれば、彼の今後の人生を一変させることになる。
遭遇したのは、リゼッタ・アズナグル、という名の、フォルクスにとっては、アカデミーに正式に在籍して寮に暮らしていた頃からの悪友、といったところである。彼の選考は〝魔法騎士〟育成学科。ソーサラーという、理論を重視する魔法の勉学と、剣技・弓術など同時にこなさなければならない、かなり厳しいものである。それを突破し、王宮の魔法騎士団に所属しているのだから、それだけの実力者ではあるのだが、学生時代の関係性から、どうにも尊敬する相手、というよりは、悪態を付き合う間柄の青年である。
実はさる高貴な人物の御落胤であるのだが、クレスブルクの下町育ち、という土壌があるものだから、通常、そんな事実は記憶の彼方である。
フォルクスの出入りを待ち構えたような場所に朝もかなり早い時刻から張っていたらしいリゼッタの肩には、なにやら、真っ黒な羽毛が見えた。よく見れば、有翼人を一人、抱え上げている。一緒に、ばかでかい槍を一本。
ああ、こいつ、そういえば力はあるんだよなぁ、と、思いつつ、フォルクスは問う。
「………それ、何?」と。
そして、リゼッタは応える。
「そこに転がっていた、たぶん行き倒れ」
指したのは、その裏口の門扉の側だった。
「おまえの知り合いかなぁ、と」
「いや、全然、まったく、知らん」
実際、記憶になかった。さる神話に出てくる、死神の化身のような漆黒の翼の持ち主。どこかですれ違いでもしてたら、記憶の端に位は引っかかるだろう、と、思う。
「……ま、いーや。オレ、仕事行かなきゃだし、コレ、お前の住んでる部屋に預かって」
どうせ、部屋は余っているだろう、と事もなげに言う。
実際、余っている。
元は、二人の兄とともに、子供部屋のような感覚で使われていた、家の本館とは別棟の建屋だ。二人の兄はそれぞれ独立し、今残っているのはフォルクス一人なので、たしかに部屋は余っている。
それをいいことに、ちょくちょく、学生時代の仲間が出入りし、呑み会などしているものだから、出入りする使用人にも適当な言い訳でごまかしはいくらでも可能だろう。せいぜい「あら。またアカデミーの変わったお友達ですね」といった取り扱いをうけることは予想の範囲内である。
「……まぁ、いいけど、中で寝かせるまではお前が運べよ。オレには無理だから」
実際、フォルクスに人一人運べるような力は無い。王都サーリアからクレスブルクへの移動すら、馬車や馬を使うのだから、よく持って、分厚い本程度くらい、といったていたらくだ。
「あー、そりゃわかってる。ってわけで、邪魔するわ」
そして、黒翼の人物はフォルクの使う建屋に運び込まれた。
それをリゼッタは空いた寝台に無造作にころがして、「今日の当番時間終わったら顔出すからよろしく」と、非情、無責任に言い放ち、「……遅刻厳禁」などとつぶやいて、とっとと出て行った。
フォルクスもまぁ、薄情なもので、そんな有翼人をほったらかして、隣室の書見台で本を広げる。
一応、使用人に声をかけて、自分の朝食ついでに、軽いパンを余分に持って来てもらい、寝台の横にある机に置いておいた、というのが、彼なりの、ほんのわずかな親切心である。