そういえば、次兄も政略結婚だっけ。しかも、ある意味正当な……
ぼんやりと、その仏頂面を思い出しつつ、フォルクスはごろりと寝転がり、そのまま眠りに落ちた。
波音がさんざめく。お坊ちゃんだろうが何だろうが、商用船ではさほどの特別扱いは無い。
幸い、フォルクスはけっこう図太くて、船酔いとか、堅い床のごろ寝などは全くの支障の無い質だ。
航海は現状、極めて良好……
『……あぶないよ』
不意に、フォルクスの、耳朶では無い、第六感めいたものに、囁く声が聞こえる。それで、がばりと飛び起きた。気配に反応したのか、側に居たアイムも起きる。
あの声は、おそらくフォルクスにしか聞こえていない。致命的な欠落を補って彼を生かしている、彼に宿っている、という、精霊の声。この声が彼の感覚に触れた時には、大抵、何かがある。
何が、と問うても無駄である。彼らの警告は示唆であって、一度たりとも、具体的に何が起きているかは教えてくれたことが無い。そこは、自分で調べろ、ということだろう、とフォルクスは解釈している。
そもそも、森羅万象を司る元素の精霊が、人間個人に警告などしてくれることが、希なのだ。いわゆる精霊使いを志して、どうにか魔法として精霊を使役できる域まで達した者にも、そうそう、彼らは警告などくれない、と聞いた。
何故、特に積極的に介入しようともしたことがないフォルクスに元素の精霊たちが好意的なのか、と、考えても無駄だし、あの警告が聞こえたときは、大抵、何か、まずいことが起きている。余計に、考えている暇などない。
フォルクスは、感覚を済ませた。とりあえず、隣のアイムの気配は無視する。
風が、音を運んでいる。それ自体は通常だ。問題は、その性質。
――――歌声。もの悲しい、歌詞と呼べるものもない、だが、妙に人を引きつけるような旋律。
(……あ……)
子供の頃に聞いた、おとぎ話を思い出す。
海で命を落とした女性が、仲間を欲する悲しい歌の物語。ときにそれは、海の男たちを惑わし、自らの領域に引き込むことがある。
ぐらり、と船が揺れた。さしたる気候変動は無かった。ありそうだという話も聞かなかった。そして、いま、精霊がしきりに警告を発している。
フォルクスは飛び起きて、海の見える船上へと飛び出す。
船員の一人が、船穂をいじっている。その表情が、どうにも不自然に見えた。
(……魅入られた?)
あのおとぎ話か。だとすれば、根源は幽霊のようなものの呼びかけの旋律。それは……
(音を運ぶ……風……)
幼い頃から、フォルクスにはその外見の特徴や立場から、腫れ物を触るような扱いで、冷遇というほどのことは無かったものの、人と接することは極端に少ない子供だった。それを埋めてくれたのは、彼にだけは当たり前の、森羅万象を司る元素である、という、また、彼の命を支えているらしい、精霊たちの存在。
彼らは、ほんのわずかばかりならば、彼の〝お願い〟を聞いてくれる。
可能、だろうか。今まで、複数人数をどうこうとしようとしたことが無い。けれども、この船の命運は、フォルクス自身の命運とも直結する。
背後から足音がした。異変を察したアイムが駆けてきた。
「海賊かなんかか?」
それならば、用心棒たる者の出番である。
「……いや、強いて言うなら……幽霊……?」
そうだ、コイツも巻き添えになるのだ。
ダメで元々、だ。
フォルクスは、目を閉じた。特に意味は無いが、その方が集注できるような気がした。
声には出さず、念じるように、精霊に呼びかける。彼の周囲の、この歌詞無き歌声を遮ってくれ、と。
これは〝お願い〟だ。正式な精霊魔法の呪法の体はなしてはいない。
また、ぐらりと船が揺れる。バランスを崩して尻餅をつきながら、フォルクスは必死に〝精霊にお願い〟をした。あの歌声を遮りさえすれば、船員たちは正常な判断ができるようになるような気がした。
夜風が動く。そして、いつの間にか、船は均衡を取り戻した。
たぶん、とフォルクスは思う。風の精霊たちが、船員たちの耳から、あの声を遮ってくれたのだろう、と。
不意に、途方もない疲労を感じた。