ヴォールファート領-フォルクス-10

writton by 龍魔幻

 エーリック・ステンダー、と呼ばれた青年は、冷や汗をだらだら流しながら辺りを見渡す。エーリック、という名はともかく、ステンダーの名を知らない者はそうそう居ない。ラディスハイド王国の盾、ステンダー山脈を領有し、国防と引き換えに大きな権限を与えられた一門の名である。
「……お前が、ステンダー?」
 とてつもなく懐疑的な目を向けるのは、傭兵としての彼をよく知るアイムである。
「えーっと、あのー、なんていうか……」
 しどろもどろのエーリックに冷ややかな目線を送りつつ、オシルスはフードをとった。
「5年前ならいざ知らず、ステンダー領王家直系最後の生き残りとなった貴方の立場は、ご自身、よーく判っておいですよね?」
「……オシルス……雰囲気と鎖と蝶の包囲網、めっちゃ怖い」
「今、クラン伯爵家当主を継いだアーリン従姉上あねうえと、高齢の現領主様にどれくらいのご負担がかかっているか、よーくご存じのはずですよね」
「……へい。アーリンから蝶が来たから、とりあえず引き返してきたんじゃねぇか……てか、ダメ押しでお前が待ち構えてるとかしらねーよ」
「ああ、それでここで遭遇できたんですか。僕は父から、〝いい加減、猶予期間は終わりだ、簀巻きにしてでも連れ戻してこい〟との命を受けているだけで、従姉上あねうえの動きまでは知りませんでしたが……まぁ、本当に、いい加減にしてください」
 アイムは、必死に記憶をさらう。たしか、ステンダー本家には現領主の子と、さらにその子が5人いた。ただし、4年前の疫病で、対処にあたった一族の多くは命を落とした、ときく。つまり……
「お前、とても貴族にはみえねーけど、傭兵稼業してたから生き残った偉いさん、ってこと?」
「ええ、そんなところです。本来なら疫病収束直後に連れ戻すべきなのを、4年も猶予を差し上げたんですから、いい加減、観念してもらいたいんですよ。けっこう、逼迫してる状況ですから」
 エーリック本人に代わってオシルスが応える。
「諦めて、帰ってきてもらわなければこちらが立ちゆかないんですよ。アイム・ミラーフェルトさん」
 オシルスの言った名に、アイムはドキリとした。

 フォルクスはヴォールファート侯爵の屋敷の客間に通され、茶をすすっている。貴族仕様の無駄に高価な茶だろうなぁ、と思いつつ、改めて小さく吐息する。
「侯爵様のお見えです」
 声がかかって、この家の当主でありフォルクスの兄、グリフィスが入ってくる。グリフィスは慣れた様子で人払いをして、応接間には兄弟二人きりになった。
「……たいそうなお出迎えで……相手が俺なんだから、もっとてきとーでいいのに」
「一応、侯爵家としての体裁がある」
 ああ、そんなもんですか、とぼやきながら、フォルクスはこの家にしたためられた書類を渡す。返書は、この家に仕える誰かが、アーデルリアスのバーム家に行くはずで、フォルクスはこの書類の中身すら知らない。興味も無い。
 グリフィスも受け取って、その場では開封すらしない。
「……家の方は?」
「親父も兄貴もピンピンしてるよ……あ、兄貴んとこ、三人目生まれたっぽい」
「そうか。母さんは?」
「相変わらず。ま、仕事はすげーから問題無いっしょ。俺は今、こうして仕事として遠くに居るんだから、そうそういらねぇこと言うやつもいないだろうし」
「……そうか」
 そこまでで、沈黙が落ちる。せいぜい、こんな仲なのだ。血縁者が必ず仲が良い、などというのは幻想で、現実はこの程度である。
「……じゃ、俺、帰る……っていうか、街に宿とってるから、行くわ」
「ああ。まぁ、道中で妙なことを起こすなよ。理由如何では、母さんの耳に入ると面倒だ」
「わかってまーす」
 席を立って背を向け、兄の言葉にひらひらと手を振った。一応、兄の体面があるから、この家のメイドなどの前ではきちんとした態度で挨拶をして、館を出た。

 昔は戦争をしていた場所、というだけあって、それなりの城砦だ。外に出て、その中心に今、兄がいるのか、と考える。今はこの辺りは平穏だという話だし、なんだったら、近辺小国の穀倉庫という扱いらしいから、よほどで無い限り、安泰だろう。
「……偉い人になったんだなぁ」
 これで穀潰しは俺だけか、とぼやく。まぁ、生きているだけで奇跡のような存在ではあるが、それに何か大きな意義がある、などとは全く思っていない。強いて言うなら、精霊の悪戯……
 ふ、と、フォルクスは周辺に違和感を感じた、などと思えたのは、一瞬だった。
 すでに日常と化していた精霊の気配が周囲からすっぽりと消えた。生まれてから今まで、一度たりともない感覚だった。
 まず手先に、ピリッとした痛みを感じた。それから、身体の内側が悲鳴を上げるような痛みを訴え出す。
 ――――ヤバい……――――
 それだけは、直感でわかる。全身から、精霊が抜け落ちた、という感覚があった。それは、彼の身の安全に関わる。
 無意識に、フォルクスは兄の住まいから遠ざかり、街へと向かおうとした。
 しかし、身体が言うことをきかない。やがて、ずるずるとその場にへたり込む。
 ――――まずいなぁ……――――
 まだ、仕事が残っている。それに、ここが兄のお膝元であるとすれば、場合によっては母に知れる。商売の一画を担う母がフォルクスの不調で錯乱状態になれば、その損失は大きい。アイムも待たせている。
 ――――……今は、まずい……――――
 いつか、精霊の気まぐれが彼から離れたら、おおよそ、こうなることは予測が付いていた。だが、なぜ、それが、今なんだ。
 本来の人として身体の保護機能が欠落していて、それをまとめて精霊が纏うことで補っていたのだから、予想はできる。
 直接に浴びる外気は、予想以上の痛みがあった。陽光や風が直接に触れることで、彼の肌をむしばんでいく。身体の内側も、支えを失って悲鳴を上げている。
 ――――……今は、まずい……――――
 縁者に与える影響が大きな時期だ。もっと、のんびりした時期に、森でひっそりと、ならば、あまり文句はない。元々、うっかり生きていた類いの人間だと、自覚はしていた。だけど、今は……
 その思考も、いつしか鈍くなり、やがて、意識が途切れた。

 グリフィスの姑、エルザ・ヴォールファートに雇われた流れの魔術師は、呆然とした。彼がフォルクスに放った魔法は、人間の周囲の精霊を一時的に排除するだけのものだ。本来、戦場でやっかいな精霊使いを一時的に無効化するために使う。周囲に使役する精霊が居なくなれば、彼らの攻撃手段は減る。ただ、それだけの魔法だ。
 ちょっとした嫌がらせ、と、あの婦人も言った。
 それが、どうしてこうなるのか。
 しばし、呆然として、その場を動けなかった。